Richard Stallman インタビュー

akirashibata2005-12-23

ZNetのサイトで、一週間くらい前にストールマンのインタビューが掲載されたので、早速訳してみた。

http://www.zmag.org/content/showarticle.cfm?SectionID=13&ItemID=9350
Richard Stallman interviewed by
Justin Podur

リチャードストールマンは、フリーソフトウェアームーヴメントの創始者の一人であり、そしてGNUオペレーティングシステムの開発リーダーでもある。著作に、「Free Software, Free Society」がある。十二月五日、電話で彼と対談した。

――まずはじめに「フリーソフトウェアムーヴメント」について説明してもらえるかな?

 基本は、ソフトウェアーのユーザーは特定の自由を持っているべきだということなんだ。僕達はその中でも四つの本質的な自由をfreedom 0 から 3と呼んでいる。

Freedom 0 は、自分の好きなようにソフトウェアを使う自由。Freedom 1 は、そのソースコードを読んで、自分の好きなように変更する自由。 Freedom 2 は、好きなようにそのソフトをコピーして配布する自由。そしてFreedom 3は、自分の変更したバージョンを配布することが出来る自由。この四つの自由によって、ユーザーは自分のコンピューターの完全なコントロールを手に入れることができてそれをコミュニティーに協力する形で使うことが出来る。Freedom 0 から 2 は、ユーザーの直接の利益になる、なぜならこれはすべてのユーザーが行うことが出来るから。Freedom 1 から3は直接的にはプログラマーの利益でしかないけれど、結果として皆がそこから得るものがある。というのは、誰もがそのプログラマーのしたことを受け入れるか、もしくは受け入れない、ということによって、ユーザーもフリーソフトウェアの開発にかかわっているといえるからなんだ。

それに対して、フリーでないソフトウェアというのは、ユーザーを隔離してお互い協力できないようにしている。これらのソフトは分離して征服するための社会的方法にもとづいて配布されている。フリーでないソフトの開発者は、ユーザーに対する力をもっていて、その力をユーザーの不利につながる形で使っている。こういう意地悪っていうのはフリーでないソフトウェアに共通してある問題で、それはユーザーが欲したからではなくて、開発者側が一方的にユーザーに押し付ける形で行われている。フリーソフトウェアムーヴメントは、そういったフリーでないソフトから逃げるのが目的なんだ。

――あなたのFree Software Movement の活動の歴史を教えてください。

 僕がはじめたのが1983年で、完全にフリーなソフトウェアの世界を作ると決意してやったことなんだ。フリーで便利なソフトをチョコチョコ作っていこうっていうんじゃなくって、もっと計画的にフリーソフトを作っていって、完全にフリーでないソフトが必要なくなるような環境を作るのがそもそものアイディアだったんだ。フリーでないソフトウェアは、基本的に反社会的なもので、そんな風に一方的にユーザーとかかわっていくようなものは存在するべきでない。だから私が作りたかったのはそういうものが実際に存在しないコミュニティーだったんだ。フリーでないソフトから逃げるためのコミュニティー

そのためにまず最初に必要になるプログラムがOSになる。OSさえあれば、コンピューターをつかっていろんなことが出来るようになる。もしOSがなければ、例えアプリケーションを沢山もっていても何も出来ない、それを実際に使うことが出来ないんだよ。1983年にあったOSはすべて専有的なものだったんだ。だからコンピューターを使う前にまずしないといけなかったのは、自分の自由を放棄することだった。ユーザーはまず契約書に同意させられて、ソフトウェアの共有をしないって約束したうえで、ソースコードなしで中がどうなってるのかわからないエクセキュータブルだけを渡された。コンピューターを使うっていうことが自分のコミュニティーを裏切ります、ってことに同意してからじゃないとかなわなかったんだ。

だから僕にはフリーのOSを作る必要があった。そしてたまたま僕の得意分野はそこにあったんだ、だから自分にもこの仕事はあっていたんだ。それにこれはまず最初にしないといけない仕事でもあった。

僕達の作ったOSはUnix互換のもので、GNUという名前だった。GNUっていうのは、”GNU is Not Unix”っていうところからきていて、GNUの一番大切なことは、それがUnixでは無いっていうことだったんだ。僕達が作ったのはUnixに似たシステムだったけど、Unixではなかった。僕達は全く一から自分達で作ったんだ。

1983年には、Unixには何百個ものパーツがあった。僕達は長い時間をかけてひとつずつそれらを自分達で書き直していった。いくつかは数日で終わったし、一年どころか数年かかったパーツもある。

1992年には、僕達は肝心なひとつのパーツを除いてすべてを作り終えていた、その重要なパーツがカーネルだった。カーネルはシステムの最重要部品のひとつで、GNUでは1990年から作り始めていた。最初のデザインは、それが早く完成できるっていう理由で決めたものだったけれど、その決断は裏目に出て、僕の思ったよりもずっと長い時間がかかった。1992年にLinuxカーネルが開放された。1991年にリリースされたものだったけど、最初はフリーでは無いライセンスだったんだ。1992年に、Linuxの開発者がライセンスを変更してフリーにした。というわけで僕達の手元にはフリーのOSがやってきた、それが僕が「GNU/Linux」もしくは「GNU plus Linux」と呼んでる物なんだ。

けれどもこのコンビネーションはユーザーには少し分かりにくかったみたいで、結局全体がLinuxと呼ばれるようになったんだけど、僕はあんまり感心しない。

まず第一に、GNU側のプロジェクトにかかわっている何千人もの人たちはその開発者として認められるに値するし、そもそも僕達がプロジェクトをはじめて、その大半の仕事をしたわけで、そこのところは公平にして欲しいと思う。(カーネルこそがOSのほかのどの部分よりも重要だって信じている人がいるみたいだけど、これは「Linux」っていう間違った名前を正当化しようとしたところから来てる。)

でも問題は僕達が十分に評価されてないってことだけじゃないんだ。GNUプロジェクトは自由に向かうための活動で、Linuxの方はそもそもそうじゃなかった。Linuxの開発者には他の動機があったんだ、むしろもっと個人的な目的が。もちろんそれだからって彼の貢献が無になるってわけじゃない。彼の動機だって悪い物ではなかった。彼がシステムを作ったのはそれを楽しんで、そこから学ぶことが出来たからで、楽しいって事はいいことだよ、プログラミングって本当に楽しいものだから。同時に何かを学びたいっていうのもいいことだ。でもLinuxが向かっていた先はサイバースペースを開放するっていう事とは違ったもので、それだけでは今のGNU/Linuxシステムは産まれなかったはずなんだ。

今現在何百万人もの人が自由のために開発されたOSを使っているけれど、誰もそのことを知らないでいるのは、皆が使ってるシステムがLinuxであって、それはそもそも「楽しいから」っていう理由だけで作られたものだと思ってるからなんだ。

――じゃぁGNU+Linuxっていう組み合わせは偶然ではなかったと?

 偶然にばかり頼って自由を求めることは出来ないよ。もちろんそういう偶然が助けになることはあるけれど、そこには意志をもってそれを成し遂げようとする人がいないとだめなんだ。そもそもLinuxは自由のために作られたものではなかったから、最初のライセンスはフリーじゃなかった。実のところなんで彼がフリーに変更したのか知らないんだ。

――GNUプロジェクトとLinuxのちがいっていうのはフリーソフトウェアと、オープンソースの違いに似てるかな?

 GNU+Linuxが何千人、何万人もの人に使われるようになって、ユーザーがお互いに話すようになった。でも皆が口にするのはいかにシステムがパワフルで、信用できて、便利で安くて楽しいかっていうことばかりで、一番大切な自由のことには誰も触れないんだ。皆そういう風に考えたことがないし、結局僕達の哲学は僕達の作ったものほどは広がらなかった。

リナックスを作ったLinus Torvaldsが僕達のアイディアに賛成したことはないんだ。僕達の倫理的な部分を弁護することはなかったし、フリーでないソフトが反社会的であるって非難することもなかった。彼がいうことはいかに自分のソフトウェアが技術的に他の競争相手よりも進んでいるかっていうことだけなんだ。

彼のいってることはまぁ正しいんだよ、1990年代に誰かが、ソフトウェアの信頼性を計る実験をしたことがあって、いろんなプログラム(いろんなUnixシステムとGNUシステム)にランダムな入力をして、GNUが一番信頼できるって言う結論を出したんだ。彼は数年後にも同じ実験をしていて、そのときもGNUが一番だった。

Torvaldsの考え方は1996年ころになるとコミュニティーのゴールを二分することになった。つまり、ひとつのグループは自由のために、もうひとつはパワーと信頼のあるソフトウェアのために。頻繁に公開討論も行われて、1998年に向こうのグループは自分達の活動を「オープンソース」というくくりに入れたんだ。「オープンソース」なんてムーヴメントじゃないよ、僕に言わせれば。多分、アイディアと運動の寄せ集めってところだと思う。

――そのことについてもうちょっと突っ込みたいんだけど、その前に「ムーヴメント」っていう言葉を定義してもえるとちょうどいいんだけど。

 定義っていうのは用意してないな、ちょっと考えてみないと。とりあえず、理想を推進するために活動している人たちの集まり、ってことにしたいと思う。もしくは、その理想そのものと、それを実現するための活動。

――では「オープンソース」というのはその理想の部分が欠けている、と?

 彼らがやっているのは開発のための方法論を推奨してそれがソフトウェアを作るためにいかに優れてるかっていうことをいってるんだよ。そうだとしたら、それってボーナスだよね。自由はしばしば便利さにつながることになる。僕だってもっとパワーのあるソフトが出来て嬉しいし、自由がその助けになるならそれに越したことはない。でもフリーソフトウェアムーヴメントからすればそれは二の次になるけれど。

――そして実際のところ自由のためであればソフトウェアのパワーとか便利さ犠牲にする心構えも必要だ、と。

 その通り。


フリーソフトウェアと政治

――ZNetのリーダーにはなんだかのムーヴメントにかかわっている人が沢山います、貧困に戦う、戦争反対、とかもしくは他の社会的変化に対する活動です。そういう人たちが何故あなたの活動に注目して、フリーソフトウェアムーヴメントにかかわることが大切なのか説明してもらえますか?

 もしビジネスにおけるグローバライゼーションに反対するならば、フリーソフトには賛成だということが出来るよ。

――でもビジネスのグローバライゼーションが問題なんですか?それならば地域的なビジネスは問題にならないということ?

 グローバライゼーションに反対だといっている人は本当はビジネスのグローバライゼーションに反対なんだ。彼らもグローバライゼーションそのものに反対というわけではなくて、他の種類のグローバライゼーションだってあるんだ。たとえば協力することのグローバル化、知識のグローバル化、こういうことには彼らも反対しない。フリーソフトウェアはビジネスの力を協力と知識の共有で置き換えるんだ。

悪いものがグローバルになるっていうのはもっと悪い。ビジネスの力は悪いものだから、それがグローバルになるのはもっと悪い。でもいいものをグローバル化することは大概においていいことだよ。協力と知識の共有はいいことだし、それがグローバルになれば更にいい。

だから彼らが反対してるグローバライゼーションって言うのはビジネスのグローバライゼーションだと思うんだ。そしてフリーソフトウェアはそういうムーヴメントとともにある。これは、ソフトウェア開発者が一方的にユーザーを支配している状況に反対する意思を表すことなんだ。

――フリーソフトウェアの活動が、分相応ではないという意見に対してどう反論しますか?戦争の悲惨とか、侵略とか、占領とか、貧困とか、そういうことに比べればコンピューターにおける自由というのは重要さにかけるのでは?

 多分僕達の考え方っていうのは間違った形で提示されてるんだと思う。一人の人間がすべての問題にかかわっていくことは出来ないよ。プログラマーが自分の技術と才能が一番活かせることにかかわるのは自然なことだと思う。

もし僕が、フリーソフトだけが重要な問題だって言ってるんだとしたら、皆がそういう風に考えるのも無理はないと思う。でもそうじゃないんだ、これは単に僕が一番うまくやれる活動だ、ということなんだ。

問題は、僕達の倫理的立場には共感してくれるけれど、ソフトウェアとは別のことに興味がある人たちが、わざとではなくても他の人にフリーでないソフトウェアを使わせるように仕向けていることがあるってことなんだ。そうしたら僕はこういわないといけない、彼らの行動自体が、大きな会社に更に大きな力を与えている、って。たとえば誰かに”.doc”のファイルを送ったとする「ワード」の。もしくは音楽とか映像をRealPlayerとかQuickTimeとかのフォーマットで送ったとする、そうするとそれは他の人に自由を捨てろ、って言ってるのと同じことなんだ。多分僕がいつもこんなことばかりいってるから、そういうことをいわれるようになったんだと思う。

時々人々は、僕が彼らの活動に協力してくれるのは当然だって思ってることがあるみたいで、だから僕の講演がストリームされるようなときは、それがどういうフォーマットなのか聞かないといけないことになる。僕は自分が自由に関する講演をしながら、それを聞く人たちが自由を放棄しないといけないような状況は許せない。ストリームがRealPlayerだと聞いて、カメラにコートをかぶせたこともあるよ。

――ガンディーが、「Hind Swaraj」っていうもともと新聞記事だった著作のかで、彼自身にそれと似たような質問をして答えてたことがありました。彼が言っていたのは、インドがイギリスだけじゃなくて、すべての「西洋文明」を排除しないといけない、ということで、こういう質問を自分にしたんです、「英語で、活版印刷した文章で西洋文明に反対することは出来るんだろうか?」彼の答えは、時には毒をもって毒を制することが必要だ、ということでした。

 でも英語を知ってるっていうことは征服にはつながらない、インドで英語を学ぶのに失われた自由はないよ。けれども僕が想像するには、インドにはあんまりにもいろんな言語があるから、英語よりも適当な言語はなかったんじゃないかな。

――英語より適当な言語がなかったということは、以前にはなかった選択肢があるという事が倫理的な問題につながるということですか?

 倫理的な問題になるのはそこに制約がある場合だよ。英語を使うことはインドにとっていいことにも悪いことにもなると思うけれど、それ自体は自由を取り上げるものではない。インドは独立を手に入れたけど、英語はなくならなかった。実は最近聞いたところでは、いまやインドには英語を第一言語として学んで他の言語を学ばない人もいるらしい。

それに対してRealPlayerを自分のコンピューターで使うことは、実際に自由を放棄することになるんだ。

――ZNetもフリーなソフトウェアを使うべきでしょうか?

 そうでなければ人々に自由を放棄することに荷担することになるし、それってZの目的や精神からはかけ離れたものになるよ。

ほとんどの人たちが、どのソフトウェアを使うかを選ぶということに倫理的な問題があると思っていないんだ、ほとんどの人たちが専有的なソフトウェアしか使ってきていないし、他に選択肢があるなんて考えもしないことなんだ。Z誌では社会的習慣に対する正当さに焦点を当てることが良くあるし、それによってソフトウェアにおける社会的習慣を人々に考えさせる助けになることが出来る。

――でももしも別の選択肢がなかったとしてもそれは倫理的な問題になるでしょうか?たとえばフリーのソフトウェアでZNetに必要なものが見つからなかったら?

 そういうものがなくてもやっていけるよ。

――どういう意味で?どうしてそういえるのですか?

 もしあなたがどうしてもその仕事をしないといけないのならば、そのときはフリーの代用品を作るのに貢献すればいい。もしあなたがプログラマーでないのないとしても、それでもあなたが貢献できないわけじゃない。たとえばそういう活動をしている人たちにお金を寄付したりすることによって。

――あなたの目にはフリーではないソフトを使うことの方がいいという状況は全くないということですか?

 もちろん特別な場合はある。GNUの開発に僕はUnixを使った。でも僕はそうする前にそれが道徳的なことかを考えたよ。

結局GNUの開発のためにUnixを使ってもいいだろうという結論に達した、なぜならGNUの目的は他の皆がUnix使うことをやめさせることだったから。僕達がUnixを使ってやっていたのはやっつけ仕事ではなくて、それによってある特定の悪に打ち勝つためだったんだ。

――では、ZNetに関していえば、私たちの読者が減って、活動の範囲が狭まるようなことには賛成しないといっていいですか?

 そうだね。その必要はないと思う。

ブラジルにある大学で、完全にフリーのソフトに乗り換えたところがあるけれど、彼らはフリーソフトでどうしても出来ない問題を抱えていた、だから彼らのしたことは、プログラマーを雇ってフリーのソフトを作ったんだ。(これはフリーじゃないソフトに払っていたライセンスの一部でしかなかった。)ZNetだって同じことが出来るんだよ。フリーの代用品の開発にかかわるのならば一時的にフリーでないものを使うことも出来る。

ZNetの場合については、今あるフリーのソフト以外のものが必要だとは思えない。ウェブマガジンをフリーソフトだけで作っているところはすでに存在しているよ。多分あなた達がそうするのも簡単だと思う。

資本主義と戦略

――ほかのインタビューで、あなたは資本主義に反対ではないと読んだのですが、資本主義をまず定義してもらえますか?

 資本主義は主にビジネスを中心として一定のルールの中で人々が自由を持っている社会的構造だよ。

――ビジネスっていうのは?

 ビジネスの定義は持ち合わせてないけど、それは皆知ってることじゃないかな。

――でも「反資本主義者」は別の定義いを使いますよ。彼らにとって資本主義は市場であって、個人資産であって、根本的には階級性と階級化でもあります。あなたは階級というのが資本主義の根源的なところにあるものだと思いますか?

 思わないな。アメリカには階級間の流動性というのはずっとあるものだよ。すごく貧しい人にも5パーセント金持ちになる可能性があるのならば、彼らに衣食住、医療、それに教育がないっていうことは出来ないと思う。僕は福祉的社会を信じてる。

――でも報酬が平等であるべきだとは信じませんか?

 うん、それは僕の考えとは違うな。もちろん全く報われないというのはさけたいけれど、人々が極端に摂取されるのを除けば、多少の不平等は避けられないと思う。

――どれくらいの努力に対する不平等のことですか?

 うーん、でも時の運っていうのもある。

――でも社会に時の運の報いを期待することは出来ないですよ。

 運ていうのは偶然、っていう意味でもある。偶然が人の人生に影響をもつことは避けられないけれど、貧困はさけられる。人々が飢えに苦しんだり、医療不足で死んだり、最低限の生活のために12時間働いたりすることはひどいことだよ。(でも僕は一日12時間働く、まぁこれは過剰な行動主義から来るもので、仕事ではないからいいんだ。)

――あなたには才能があってそれに対する報酬もあります。社会はそういう才能そのものに報いるべきだと思いますか?

 直接的にはそうある必要はないと思うけれど、でも誰だって自分の才能をつかっていろんなことを出来る。誰だって自分の才能を活かして成功するものだし、頂点に立つことだけが成功というわけでもない。自由とか、知識の拡張とかっていう問題は成功の先にあるもので、個人的な問題ではないんだ。個人的な成功だって間違っているわけでは無いけれど、その重要性は限られているし、一度それを手にしたらそれを保つためだけに生きていくのはむなしいもので、それは真実とか美とか、公正さとは違ったものだよ。

アメリカの言葉でいうと(カナダの言葉だと違う)、僕はリベラルだよ。独裁主義には反対だ。

――独裁主義を定義してもらえますか?

 独裁主義はビジネスが有利な政府のシステムで、人々の権利は尊重されない。ブッシュ政権がいい例えだけれど、他にもいっぱいある。僕にはグローバルなレベルでもっと独裁化が進んでるように見える。

――インタビューの最初の方で、「逃げる」という言葉を使ったのが印象的でした。「ムーヴメント」にかかわる人たちは大概反対勢力を作ることを考えます、大衆の意見を変えることとか力のある人に譲歩させたり。

 僕達のやってることは直接的な活動なんだ。僕が政治的な活動をしていたら、どの会社にもフリーソフトウェアを作らせるようなことは出来ないと思うし、そもそも僕にはそういう才能はない。だから僕はとにかくソフトウェアを書くことからはじめたんだ。そういう会社が僕達の自由を尊重しないのなら、自分で自由を尊重したソフトウェアを作ろう、っていうことなんだ。

――でも政府とか独裁主義とかの話に戻れば、もしそういう権力があなたのソフトウェアを違法にしてしまったら?

 そしたらやられた、ってことになるね。そういうことは以前にもあったし、違法な種類のフリーソフトもある。

――たとえば?

 DVDを再生するプログラムだね。DECSSっていうプログラムがあって、まだ裏では出回ってるよ。でもそれが違法になったのはアメリカだけじゃなくって、アメリカが他の国にも同じ事をするように圧力をかけてるんだ。カナダもそうしようとしていたし、結局どうなったのかはよくわからないけど。EUはその命令に従って今アメリカよりも厳しい取り決めを作ってるところだよ。

――そういう状況にどう対応しますか?

 それがまだ違法になっていない国にいって反対している。そういう国で法案が通らないようにして、最終的にはもう違法にしてしまった国も解放したい。直接的な行動ではそれは難しいけど、ソフトウェアの開発は裏でも出来る。アメリカでは開発しても配らなければいいって言うことになってるんだ。

フリーソフトウェアムーヴメントについて

――フリーソフトウェアムーヴメントがかかわっているほかの活動を見てから終わりにしたいと思うのですが。

 特に重要なのは、隠された仕様を持ったハードウェアの問題、ソフトウェアの特許の問題、それと背信的コンピューティング。

ハードウェアの隠された仕様について: 仕様がよくわかっていないハードウェアのためにソフトウェアを書くのは難しい。1970年代にはコンピューターを作ってる会社があらゆるレベルのインターフェイスについてかかれたマニュアルをくれた。電気信号のことから、ソフトウェアのことまで、だから彼らのコンピューターをとてもうまく使うことが出来たんだ。でもここ十年から十五年くらい、ハードウェアの仕様が秘密にされてるものが出回ってきてる。独占的なソフトウェアを作ってる開発者は仕様書をもらうことが出来るんだ、その内容を同じように秘密にするって言う契約にサインした上でね。一般の人にはその情報は手に入らない。

だから僕達は逆エンジニアリングをしないといけない、これは時間がかかる。もしくは製造してる会社に圧禄をかけることもある、これはたまにうまくいくことがある。最悪の例が、3-Dグラフィックで、ほとんどのチップの仕様が明かされていない。ある会社がスペックを公開して、ドライバーも開発されたんだけど、この「NVidious」(と僕は呼ぶことにしてる)って会社が協力的じゃなくって、誰も彼らのチップが乗ったコンピューターは買うべきじゃないと思うよ。

ソフトウェア特許の幻想についてはこの前イギリスのガーディアンに書いた記事にちょっと書いた。(http://technology.guardian.co.uk/online/comment/story/0,12449,1510566,00.html

最近のモダンで複雑なプログラムには共通点があるんだ。それぞれが巨大で、いろんなアイディアを使ってる。たとえば1800年代に小説に特許法が適応されたらどうなるだろう。たとえばフランスかどっかの国が文学的アイディアで特許をとることを許したらどうなるだろう。これはユゴーの文学にどういう影響をもたらしただろう。文学的特許と、文学の著作権はどういう風に違うんだろう?

ユゴーのLes Miserableについて考えてみよう。彼が書いたから、その著作権は彼にのみある。彼は他の誰かに著作権の侵害で訴えられたりする心配はしないですんだ。誰も彼を訴えたりすることは出来なかったんだよ、著作権っていうのは原作者の仕事の細かいところにしか関係していなくて、コピーを制限することしか出来ないんだ。ユゴーはLes Miserableをコピーしたわけじゃないから、問題なかったんだ。

でも特許は違う。特許はアイディアに対して与えられるもので、それぞれの特許があるアイディアを独占するために存在してる。

たとえば架空の文学的特許について:

主張1: 長期間投獄されたことで他人や社会に辛くあたるようになった登場人物のコンセプトを読者に伝えることが出来る伝達手段。

主張2: 主張1で述べられたような伝達手段で、登場人物が他人の親切に触れることで救われるような場合。

主張3: 主張1と2で述べられたような伝達手段で、登場人物がそのストーリーの中で名前を変えるような場合。

もしこんな特許がLes Miserable が出版された1862年に存在していたら、この小説はこの三項目全部を侵害してたことになる、これは全て物語の中でJean Valjeanに起こった事だから。ユゴーは訴えられたかもしれないし、それで裁判に負けたかもしれない。小説は発行禁止になって、結果的に特許保持者の検閲を受けたことになる。

では今度はこの架空の文学的特許について考えてみて欲しい:

主張1: 長期間投獄された後に名前を変える登場人物のコンセプトを読者に伝えることが出来る伝達手段。

Les Misérablesはこの特許も侵害したことになる。これもJean Valjeanの人生っていうことが出来るから。そしてもう一個架空の特許:

主張1: 精神的救いを得て名前を変える登場人物のコンセプトを読者に伝えることが出来る伝達手段。

Jean Valjeanはこれも侵害したことになる。

この三つの特許は皆この一人の登場人物に当てはまる。三つとも部分的に重なってるけれど、どれも完全に同一ではない。だから三つとも同時に有効っていうことも考えられるし、この三つの特許の保持者全員がユゴーを訴えることだって出来たわけだ。その全員それぞれがLes Misérablesの出版を禁止できたことになる。

Les Misérablesのほかの側面もこういう特許とぶつかってた可能性がある。たとえば、ワーテルローの戦いの小説的描写に特許があったかもしれないし、パリのスラングを使った小説に対して特許があったかもしれない。更に二つの裁判になる。実際、Les Misérables見たいな本を訴えるのに使える特許の数は数えきれない。どの特許保持者も自分達の特許が持っている文学的革新性に対する報酬を求めることになるけど、結局こういう障害は文学の進歩にはつながらなくて、その反対の効果しかない。

この対比はプログラマーでない人たちにソフトウェア特許の影響を説明するのに使える。ソフトウェアの特許はたとえばワープロソフトの中で使われる略語とか、表計算での自動計算機能とかに与えられる。プログラムが必要とするアルゴリズムに特許があるんだ。他にもマイクロソフトのワードのフォーマットとか。MPEG2のビデオのフォーマットはアメリカで39個の特許が適応されている。

ひとつの小説がたくさんの文学的特許を侵害したように、ひとつのプログラムがたくさんの特許を同時に侵害することになる。大きなプログラムがどの特許を侵害しているのかを調べるのはとても大変な作業だけど、実際にそういうことが必要になってくる。2004年に行われたLinuxに関する調査では、GNU/Linuxカーネルアメリカで283個の特許の侵害にあたることがわかった。つまりこの283個の特許が何千ページに及ぶLinuxソースコードの部分部分をカバーしているってことなんだ。

だからソフトウェアの特許っては開発者の落とし穴になっているんだ。そしてそれはユーザーにとっても同じことで、ユーザーも同じように裁判にかけられる可能性があるんだ。

背信的コンピューティングというのは、将来的にコンピューターに開発者側の意図したとおりの動作をさせる計画のこと。それを推奨している方からすれば、これは「信頼されてる」から、彼らは「信用コンピューティング」と呼んでいる。でもユーザーの側からすればこれは裏切りなんだ。どの名前でこれを呼ぶかで、その人がどちらの側についているのかがわかる。たとえば新しいXboxなんかいい例で、ユーザーはマイクロソフトの許可が与えられていないソフトウェアはインストールできない仕組みになってる。ここにある「あなたはコンピューターを信用できるか」というエッセイで、このことについて詳しく説明してある。(http://www.gnu.org/philosophy/can-you-trust.html)

技術的なことをいうと、背信的コンピューティングは、デジタル暗号とデジタル鍵を使っている。そしてその鍵は隠されてるんだ。専有的なプログラムがこれを使って、他のどのプログラムがその機械で使えるかをコントロールする。どんなファイルやデータにアクセスすることが出来るか、とか、どんなプログラムをのせるか、とか。許可されたプログラムは常に新しいルールをインターネット経由でダウンロードして、これをその機械にあるプログラムに適応する。もし新しいルールをダウンロードしないようなことがあれば、そのコンピューターの機能が自動的に止まるようになっている。

背信的コンピューティングを使っているプログラムは継続して新しい許可ルールをダウンロードしてきて、あなた自身のデータにそれを適用するから、もしマイクロソフトか、アメリカ政府があなたの書いたことが気に食わなければ、それを誰も他の人が読めなくなるようなルールを作って適応することが出来る。すべてのコンピュータが、その新しい指示に従うことになるんだ。あなたの書いたものが1984年式にさかのぼって消去され、自分でも読めなくなってしまうかもしれない。

背信的コンピューターのせいで、フリーなソフトウェアは今危機にさらされている。なぜなら将来的にフリーなソフトは全く使えないということにもなりかねないからだ。あるバージョンの背信的コンピューティングは、ある一定の会社の許可したOSしかつかえなくするかもしれない。そうするとフリーなOSはインストールできなくなる。他のバージョンではすべてのプログラムがOS開発者からの許可を必要とするかもしれない。フリーのアプリケーションはそんなシステムでは全然使えなくなる。もし使える方法を見つけても、他の人にそれ教えたらそれは犯罪になるんだ。

ZNetはフリーソフトに乗り換える可能性を模索し始めたところです。もしあなたがこの活動に加わりたければ、Free ZNet Project forum (http://znet.2y.net/zbb/index.php)に参加して自己紹介してください。