自分のコンピューターを信用できますか?
メリークリスマス。イギリスにいても外に出ないでテレビを消しておけばクリスマスから逃れられます。昨日に引き続いてまた翻訳しました。
今日は二つ。
自分のコンピューターを信用できますか?
By Richard Stallman(http://www.stallman.org/)
あなたのコンピューターは、誰のいうことを聞くべきでしょうか?ほとんどの人はコンピューターは他の誰かではなくて、所有者に従うべきだと思うでしょう。「信頼コンピューティング」という考えがが今巨大なメディア会社(映画やレコード会社を含む)や、マイクロソフト、インテルといったコンピューター関連会社を中心に計画されて、あなたのコンピューターをあなたではなく彼らの言いなりにならせようとしているのです(マイクロソフトのバージョンは「パラジウム」と呼ばれている)。占有的なプログラムは以前にも悪意ある機能を付けたことがありますが、この計画はそれをもっと大きな問題にします。
占有的なソフトウェアというのは基本的に、あなたがその動作をコントロールすることが出来なくて、またソースコードを見て中身を替えることも出来ないものです。頭のいいビジネスマンが力を使って他人を陥れるのは日々行われていることです。マイクロソフトはそういうことを数回に渡ってやってきました。あるバージョンのウィンドウズはハードディスクの中にある全てのプログラムをマイクロソフトに通知する機能をもっていました。最近の「セキュリティ」更新では、ウィンドウズメディアプレーヤーはユーザーにさらに新しい制限書に同意させました。マイクロソフトだけではありません。あのKaZaa音楽共有ソフトは彼らのビジネスパートナーがソフトがインストールされているコンピューターの利用権を貸し出せるような仕組みになっているのです。こういう悪意のある機能は大概秘密にされていますが、例えそのことを知っていたとしても、ソースコードなしには、取り除くのがとても難しいのです。
昔は、こういう出来事はたまに起こるだけでした。「信頼的コンピューティング」は、これを全面的に広げることが出来るのです。「背信的コンピューティング」というのがもっと適当な名前です。この計画はあなたのコンピューターがあなたの命令にしたがわないするようにするための一歩なのです。もっと正確にいえば、これはあなたのコンピューターが一般的目的のためのコンピューターではなくなることを意味するのです。一つ一つの動作にしっかり許可が与えられる必要がでてくるので
す。
背信的コンピューティングの裏側にある技術にデジタル暗号技術と暗号鍵の仕掛けが挙げられます。そしてこの暗号鍵はユーザーから隠されたところに置かれています。占有的プログラムは、この仕組みを使ってたとえば、そのコンピューター上のほかのプログラムの利用を制限したり、どの文書やデータにアクセスできるかを勝手に決めたり、またそれらのデータをどういうプログラムで読み出せるか、ということをコントロールしたりします。こういうプログラムは定期的に新しいルールをインターネットからダウンロードしてきて、それをあなたのデータに自動的に適応します。もしコンピューターがこれをダウンロードできない場合、一部の機能が自動的につかえなくなったりするのです。
もちろんハリウッドとやレコード会社はこの背信的コンピューティングを利用したDRM(Digital Restrictions Management, デジタル許可管理)を計画していて、これが出来るとダウンロードされたビデオや音楽が決められたコンピューターでしか再生できなくなります。だから正規に許可されたコンピューターを使えば、それらのファイルを共有することは完全に不可能になるのです。私たち一般人はこういうものを共有する自由を持っているんです。(もちろん誰かがこういったシステムの秘密を暴くことになって、それを他の人に配ったりすることになるはずなので、DRMは必ずしも成功するとは思えませんが、それだからといってそんなシステムを使うことのいいわけにはなりません。)
ファイルの共有が出来なくなるだけでもひどいですが、更に悪いことがあるのです。これと同じ機能を使って、メールやその他の文章を管理しようというのです。結果的に二週間で消えるメールとか、会社の中のたった一台のコンピューターでしか読めない文章が出来たりします。
たとえばあなたの上司が、ちょっとリスクが高いと思われる仕事をやらせる場合を考えてみてください。一ヵ月後にそれがうまくいかなくてもそのメールを使って上司を責めることは出来なくなります。「書いて証拠に」しておいても、インクが消えてしまうのでは役に立たないのです。
たとえばあなたが上司から受け取ったメールに常識では考えられないような違法な計画がかかれてていて、たとえば会社の会計検査書を抹消しろと書いてあったとします。もしくはあなたの国に危険なものをチェックなしで輸入する、ということでもいいですが、いずれにしてもそれをマスコミに知らせることは簡単です。ところが背信的コンピューティングの世界では、そうして送られたメールが他の誰にも読めないようにするようなことが可能なのです。
ワープロソフトのマイクロソフトワードなどは、こういう機能を利用して文書をセーブすることが出来るのです。そうすると他のライバルのワープロソフトはこれを読めなくなります。今現在、ワードの保存形式を解析するのは骨の折れる仕事で、それでもフリーのワープロソフトでワードの文章を読むためにはどうしても必要な作業なのです。もしワードがこの文書を背信的コンピューティングを使って暗号化していたら、フリーソフトウェアのコミュニティーで今あるようなワープロを開発することは出来なくなるのです。例え出来るようになったとしても、それはデジタルミレニアム著作権法で禁止されている可能性が高いのです。
背信的コンピューティングを使ったプログラムは、定期的に新しいルールをインターネットからダウンロードしてきて、それをあなたのデータに自動的に適応します。もしマイクロソフトか、アメリカ政府かが、あなたの書いた文章が気に入らなければ、新しいルールを作って、他のコンピューターでその文章が読めなくするようにしてしまうのです。コンピューターはそのルールをダウンロードするとすぐにそれに従うようになって、あなたの文章は1984年式の方法で抹消されてしまうかもしれません。自分でも読めなくなってしまうのです。
このように背信的コンピューティングにいやな機能があるのなら、自分でやってみて痛い思いをしたら誰も使わないだろう、と思う人もいます。認めるのは難しいかもしれませんが、大切なのは、あなたの判断の結果が思いもよらないところに行ってしまうことになるということです。一度こういうプログラムに依存し始めると、それしかつかえなくなるのです。そして皆がこれを使い始めたころにこれが変更されていくのです。自らアップグレードをダウンロードするアプリケーションもあって、これがどんどん勝手な行動をし始めると、もうあなた自身ではこれをとめることが出来なくなります。
今現在はまだこういう占有ソフトウェアを使わないでやっていくことが出来るのです。GNU/Linuxもしくは他のフリーなOSを使って、占有的なプログラムを使わなければ、あなたのコンピューターはあなたのものになります。もしフリーのプログラムで悪意のある機能をもったものがあれば、コミュニティーのほかの開発者がそれを取り除いて、新しいバージョンを配ることが出来ます。フリーなアプリケーションはフリーでないOSでもつかえるので、そういう使い方をしているユーザーもいるのですが、それでは完全な自由は与えられません。
背信的コンピューティングのせいで、フリーのOSやフリーのアップリケーションは今危機にあります。フリーのソフトは今後全くつかえなくなってしまうかもしれないのです。なぜなら将来的にフリーなソフトは全く使えないということにもなりかねないからです。あるバージョンの背信的コンピューティングが、ある一定の会社の許可したOSしかつかえなくするとフリーなOSはインストールできなくなります。他のバージョンではすべてのプログラムがOS開発者からの許可を必要とするかもしれません。フリーのアプリケーションはそんなシステムでは全然使えなくなる。もし使える方法を見つけても、他の人にそれ教えたらそれは犯罪になるのです。
すでにアメリカでは、全てのコンピューターに背信的機能をつけるための法案が検討されています。そうなると古いコンピューターはインターネットにつなげることが出来なくなるのです。CBDTPA(私たちの間では、Consume But Don't Try Programming Act,使ってもプログラミングはするな法案)がそのひとつに挙げられます。例えそうしたものが完全に背信的コンピューティングに乗り換えることを迫らなくても、そうしなくてはいけない、という強いプレッシャーをかけてくるでしょう。今日ワードフォーマットで情報をやり取りすることがあるますが、これはいくつもの問題をはらんでいます(興味があれば「ワードアタッチメント撲滅のために」http://www.gnu.org/philosophy/no-word-attachments.html)。もし新しい、背信的コンピューティングでしかワードの文書が読めなくなったら、そちらに乗り換える人は沢山いるでしょう。私たちに出来ることは、一丸になってこの選択に反対することなのです。
背信的コンピューティングについてもっと知りたければ、http://www.cl.cam.ac.uk/users/rja14/tcpa-faq.html
背信的コンピューターを阻止するためには多くの人々が協力する必要があります。私たちは協力者を探しています。Electronic Frontier Foundation(http://www.eff.org/)とPublic Knowledge(http://www.publicknowledge.org/)が、反対のキャンペーンをはじめました。Free Software Foundationは、Digital Speech Project(http://www.digitalspeech.org/)もサポートしています。ぜひ彼らのサイトに行って、活動のを支援してあげてください。
あとがき
1. GNUプロジェクトではGNU Privacy Guardというプログラムを配布していて、パブリックキーを使った暗号と、デジタル鍵の技術を使って、安全なメールの送信などに使うことが出来ます.このGPGが、背信的コンピューティングの仕組みとどのように違うのか考ておきたいと思います。なぜ片方は便利で、もう片方はそんなに危険なのでしょうか。
GPGを使って暗号化された文書を送る場合、GPGを使って読み出すことになります。そうすると文書は再び読める形式なって、それを転送したり、コピーしたり、もしくは再び暗号化して安全に送ることも出来ます。背信的コンピューティングを使ったアプリケーションでは、ワード文書などをスクリーンに映すことは出来るかもしれませんが、暗号化をはずして使うことは許されません。GPGはフリーソフトウェアにしてこういった安全な機能をユーザーに提供しています、そしてユーザーがそれを使うのです。背信的コンピューティングは、ユーザーに制限を課すことを考えて作られています、ユーザーが使われる様になるのです。
2. マイクロソフトはパラジウムのセキュリティーがウイルスからユーザーを守るといっていますが、これは明らかに間違っています。マイクロソフトリサーチによる2002年のプレゼンテーションによれば、パラジウムを使っても現在使われているOSやアプリケーションはそのまま使われる、ということなので、ウイルスに対する免疫に変化はないのです。
マイクロソフトがパラジウムを使った「セキュリティー」の話をするときは、セキュリティーという言葉が通常意味するのとは別の意味で使われています。普通ならあなたのコンピューターを、あなたの欲しくない物から守るということになりますが、マイクロソフトが意味しているのはあなたのコンピューターの中のデータを彼らがして欲しくない方法でアクセスできないようにする、ということです。プレゼンテーションの中ではパラジウムがどのような秘密を守るために使えるかリストされていて、そこにはサードパーティーの会社の情報と、ユーザーの秘密も含まれているのですが、「ユーザーの秘密」というのは鍵括弧でくくられていて、それはパラジウム的な考え方ではうまく説明できないもののようでした。
プレゼンテーションでたびたび使われていた言葉は主にセキュリティーに関係した単語で、「アタック」、「悪意のあるコード」、「スプーリング」そして「信頼された」などですが、そのどれもが少し曲げられた意味で使われています。「アタック」というのは誰かがあなたを傷つけようとしてるのではなく、あなたが音楽をコピーしようとしているということ。「悪意のあるコード」は、あなたがインストールしたプログラムで、彼らが好まないもの。「スプーリング」は誰かがあなたを出し抜こうとしてるという意味ではなく、あなたがパラジウムを出し抜こうとしている、という意味です。
3. 過去に出てきたパラジウム開発者の発言の中には、情報を開発した、もしくは集めた人が、その使い道を決められる、という原理が述べられていました。これは過去に考えられていた法制度内の倫理観を一転させる出来事を象徴しています。それは過去に例を見ない支配システムの誕生を意味します。このシステムからでてくるひとつずつの問題というのは偶然同時に出てきているのではないのです、それはひとつの大きな目標から産まれたものなのです。それを私たちは拒否しなくてはいけません。
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そしてこっちは昨日訳したインタビューからリンクされていた記事
英ガーディアン誌掲載のコラムより
http://technology.guardian.co.uk/online/comment/story/0,12449,1510566,00.html
不合理な特許(Patent absurdity)
もし特許が1880年代の小説に適応できたら、いくつものすばらしい本が書かれていなかったかもしれない。もしEUが特許法をソフトウェアに適応するようになると、全てのコンピューターユーザーが制限されるようになる、とRichard Stallmanは言う。
2005年六月二十日 月曜日
来月EU議会はソフトウェア特許に関する重要な法案に投票する。この法案が可決すれば、全てのコンピューターユーザーが制限を受け、ソフトウェア開発者にとっては非常に難しい事態が訪れる。
ほとんどの人は何も知らないまま投票することになる。彼らはプログラマーでもなければ、ソフトウェア特許がどういう影響をもっているのかもよくわからないだろう。特許は著作権に似たようなものだ(もちろん細かいところは違っても)と考えている人がいるようだが、これは大きな間違いだ。
たとえば当時業界を代表していたPatrick Devedjianにこの問題について公式に質問したとき、彼はビクターユゴーと著作権の話を持ち出して、情熱的に著作権の重要性を語ってくれた。
しかし著作権がもっている力だけを考えていてもソフトウェア特許がどういう変化をもたらすのか正しく考えることは出来ない。ユゴーを例にとってその二つの違いを考えてみたいと思う。
小説と、最新の複雑なコンピュータープログラムにはいくつかの共通点がある。どちらも沢山のアイディアから出来ている点。1800年代のフランスに文学的アイディアに対する特許法があったとしよう。これはユゴーの文学にどの様な影響があって、それは著作権とどう違うのだろうか。
彼の小説Les Misérablesについて考えてみたい。もちろん彼が書いたものであるから、その著作権は彼にのみある。彼は他の誰かに著作権の侵害で訴えられたりする心配もなかった。誰も彼を訴えることは出来なかった。著作権というのは原作者の仕事の細かいところには関係していなくて、作品を複製することを制限するためにある。ユゴーはLes Miserableをどこかから複製したわけではないから、そこに問題はない。
特許はこれとは違う。特許はアイディアに対して与えられるもので、それぞれの特許がそのアイディアを独占するために存在してる。
たとえば架空の文学的特許について考えてみる。
主張1: 長期間投獄されたことで他人や社会にを信用できなくなった登場人物のコンセプトを読者に伝えることが出来る伝達手段。
主張2: 主張1で述べられたような伝達手段で、登場人物が他人の心に触れることで救われるような場合。
主張3: 主張1と2で述べられたような伝達手段で、登場人物がそのストーリーの中で名前を変えるような場合。
もしこんな特許がLes Misérablesが出版された1862年に存在していたら、この小説はこの三項目全部を侵害してたことになる。これは全て物語の中のJean Valjeanに起こった事で、このことでユゴーは訴えられたかもしれない。それで裁判に負けていたら小説は発行禁止になって、結果的に特許保持者の検閲を受けたことになるのだ。
では今度はこの架空の文学的特許について考えてみて欲しい。
主張1: 長期間投獄された後に名前を変える登場人物のコンセプトを読者に伝えることが出来る伝達手段。
Les Misérablesはこの特許も侵害したことになる。これもJean Valjeanの人生に当てはまるからだ。
この二つの特許は全てこの一人の登場人物に当てはまる。二つとも部分的に重なってるが、どれも完全に同一ではない。だから二つとも同時に有効という可能性もあり、この二つの特許の保持者全員がユゴーを訴えることができる。そしてその各々がLes Misérablesの出版を禁止できたことになる。
もしかしたらこういうアイディアというのは極めてシンプルなものであるから、特許庁はこれを認めないだろう、と思うかもしれない。私たちプログラマーは日々実際に認可されているソフトウェア特許のシンプルさに驚かされているのだ。たとえば、ヨーロッパ特許庁が発行したとプログレスバーに関する特許。他にもインターネット上でのクレジットカードを使った支払いに対する特許。もしこれをとった人たちが実際にはそんなに危険な集団でなければ、笑って終わりにすることも出来る。
Les Misérablesのほかの側面もこういう特許とぶつかってた可能性がある。例えば、ワーテルローの戦いの小説的描写に特許があったかもしれないし、パリのスラングを使った小説に対して特許があったかもしれない。更に二つの裁判になる。
事実、Les Misérablesのような本を訴えるのに使える特許の数は数えきれない。どの特許保持者も自分達の特許が持っている文学的革新性に対する報酬を求めることになるが、結局こういう障害は文学の進歩にはつながるどころか、その反対の効果しかない。
しかしもっと広範囲に及ぶ特許はこういう問題を全く無にしていた可能性もある。もっと一般的な特許権の主張を考えてみて欲しい。
多数のページに及んだ物語の構造を含むコミュニケーションの手段。
物語はフーガであったかもしれないし、もしくは全くの即興でもいい。
誰がこのような特許を申請するのかというと、例えばデュマとかバルザックとかといった似たような小説を書いてきた小説家、ということが考えられる。
ソフトウェアの場合も、特許を取るのに実際にそのプログラムを書く必要は特にないから、この架空の文学的特許のようなことが実際に起こる事になる。特許を申請するときに実際にそういう物語を書く必要はなくて、申請書を書くだけでよかったように。
特許はあらゆる会社の中に存在し、そういう会社というのは相手を訴えて脅すようなことばかりする上に増える一方である。
先ほどの例のように一般的な特許が存在していたら、ユゴーは登場人物のJean Valjeanがどういうことをしたら特許侵害にあたるかを考える以前に、そんな小説を書くこと自体をあきらめていた可能性が高い。
この対比はプログラマーでない人たちにソフトウェア特許の影響を説明するのに便利だ。ソフトウェアの特許はたとえばワープロソフトの中で使われる略語とか、表計算での自動計算機能とかに与えられる。
プログラムが必要とするアルゴリズムに特許があり、マイクロソフトのワードのフォーマット等にも適応される。MPEG2のビデオのフォーマットはアメリカで39個の特許に守られている。
ひとつの小説がたくさんの文学的特許を侵害出来たように、ひとつのプログラムがたくさんの特許を同時に侵害することになる。大きなプログラムがどの特許を侵害しているのかを調べるのはとても大変な作業で、実際にそういうことが行われたのはまだ一度しかない。
2004年に行われたLinuxに関する調査で、GNU/LinuxのOSカーネルはアメリカで283個の特許の侵害にあたることがわかった。つまりこの283個の特許が何千ページに及ぶLinuxのソースコードの部分部分をカバーしているということだ。
正式に認可された文書が、ソフトウェア技術の特許を守っている。
こういうことを支持している人たちが口を揃えて言うのはソフトウェアの「技術的な特徴」が、特許の適応を正当化するということだが、これは間違っている。というのもソフトウェアを「技術的な」方法で説明するのは簡単なことで、これはヨーロッパ特許庁も認めていることだ(http://legal.european-patent-office.org/dg3/pdf/t030258ex1.pdf)
Article 52 (1) EPCにある「発明」という言葉が、大幅に日常化してその技術的側面を考えることもなくなったようなもの(ペンを紙を使って行う書く、という動作等)も含むということは特許庁の審議会では良く知られていることである。
特許命令書 article 5 (2)(http://swpat.ffii.org/papers/europarl0309/cons0401/tab/index.en.html)によれば、ソフトウェアとは「コンピューター、プログラム可能なコンピューターネットワークもしくは他のプログラム可能な機器に読み込まれて実行」されるもので、これによって特許が適応されたプログラムに関する研究を出版することも出来なくなる。
ソフトウェア特許にソフトウェアの開発を妨害させないようにするためには、単純に特許の存在を許可しなければいいのである。2003年の初見でヨーロッパ議会はソフトウェア特許の可能性を除外したのだが、省庁がこれを覆す結論を出している。
EUの住民は早急にEU加盟国に連絡し、最初の決断が続行されるように訴えなくてはならない。
© 2005 Richard Stallman (rms@gnu.org).この文書の複製はこの注意書きを付すことで無料で行うことが出来る。
Richard Stallmanha1984年にGNUオペレーティングシステムほはじめ、1985年にはフリーソフトウェアファンデーション(fsf.org)を発足させた。この記事で使われている実例は、Gérald Sédrati-Dinetの発案に基づいている。